本読む馬鹿が、私は好きよ。
というわけで埼玉に戻ってきました。
新幹線に乗っていて思ったんですけど、
最近は電車のなかで本を読んでいる人が増えましたね。
ひょっとしたら僕の気のせいかもしれませんが、
椅子にもたれて寝ている人や
ケータイの画面に見入っている人のとなりで
読書している人の姿がよく目に映ります。
僕自身が本を読む人間なので
他の人がどんな本を読んでいるか気になって
見てしまうということも多少はあるのでしょうけれど、
それだけじゃないだろう、と。
団塊の世代が定年をむかえて、
本を読むだけの時間的余裕が生まれたから?
(教養主義の一時的復興?)
インターネットに載せるコンテンツが
それまでのテキスト中心から動画へと比重が移ることで
文章に対する欲望の真空地帯が発生し、
その隙き間を旧メディアの活字が埋めることになったから?
こういうことを考えていると、
4時間なんてあっという間に過ぎてしまいますね。
みなさんはどう思います?
映像の世紀
明日、東京に戻る予定である。
こちらには10日ほど滞在したことになるのだが、
この期間、そこそこ本を読むことができた。
読んだ本のなかにはダールの『単独飛行』や
サン=テグジュペリの『人間の大地』『夜間飛行』など
飛行艇乗りの出てくる本が何冊か含まれており、
そういった本を読んでいると
飛行機というものが誕生した頃の映像を見たくなった。
(ちょうど『石油!』の冒頭部分において
自動車という機器を初めて手にした人々の喜びと
それを操る躍動感が描かれているように、
これらの本からも確かにそういった雰囲気が伝わってくるのだ)
また同時並行で『アンネの日記』や『薔薇は生きてる』など
戦時中に十代の女の子によって書かれた日記を読んでいて、
何とはない日常の中に射す不穏の影を強く感じた。
このような読書体験から
20世紀がどのような時代であったか振り返ってみたいと思い立ち、
年末から年始にかけて『映像の世紀』を見ていた。
『映像の世紀』というのは世界中に保存されている映像記録を
NHKが発掘、収集して時代順に構成した番組のこと。
19世紀に生まれた映画は20世紀に大きな発展を遂げ、
人類は初めてその歴史を「動く映像」として
記録することが可能になった。
映像は20世紀をいかに記録してきたのか。
そのような問いに答えるべくして作られたのが、
このドキュメンタリー番組なのである。
いや、こりゃすげぇです。
よく「新入生にすすめる本」云々といった
タイトルを冠したブックガイドがあるが、
「本を読まない大学生」でも
この番組のDVDくらいは見とくといいのではと
ついつい老婆心を抱いてしまうくらい(どんなだ?)。
で、ここからが業務連絡。
えー、見聞伝のみなさん(コホン)、
半年くらい前からトップページに
「映像の世紀(準備中)」と表示されているわけですが、
これはいつごろ公開されるんでしょうかねぇ?
まさか、このままお蔵入りってことは・・・
幸福の黄色いアイロニー過剰
また偽装!一年前の映像を「今年」として放送・・・
凹凸テレビが昨年末に放送したニュース番組で
2007年に撮られた映像を2008年のものとして放送したとして、
熱心な視聴者から怒りの声が噴出している。
問題となっている映像は
年末に駅のホームや空港のロビーに群がる帰省客の姿を収めたもので、
カメラに向かってコメントしている人々の外見が
2007年に放送された映像と酷似していることから、
今回の偽装が発覚した。
映像の使い回しを指示したディレクターは、
「毎年毎年『お年玉がほしい』だの『実家でのんびりしたい』だの
同じようなコメントばかりなので誰も気づかないと思った」
と供述しているという。
不況の協和音
猫も杓子も不況である。
ひさしぶりに会う人のほとんどが、
挨拶を交わすや否や景気のことを口にする。
それが不思議でしょうがない。
もちろん、景気が後退しているのは事実のようであり、
街をちょっと歩くだけでその影響が至る所で散見される。
どこも赤字であるということを証明する例には枚挙に暇がない。
けどねぇ。
景気というのはそもそも循環するものであり、
良いときがあれば当然悪いときもあるわけで、
好況がずっと続いてほしいというのも人情としてはわかるが、
しかしそいつはなかなか難しい相談だ。
むしろ「不況」を話題に挙げる人は
もっと別の理由からそうしているのではないか?
つまり、一種のリセット願望というか、
広げ過ぎた大風呂敷を畳み込むために
「不況」という錦の御旗を掲げているのではないか、と。
たとえば銀行等が配布している粗品とか、
昨年何かと話題になった地方自治体のマスコット・キャラとか、
そういった本業とはほとんど関係ないが
金が余っているからとりあえず作りました的な商品。
あるいは、個人の家庭においても
建物のまわりに巡らされたイルミネーションとか、
構成員と同じ(あるいはそれ以上の)数のテレビや自家用車。
そういったものが、
これからどんどん姿を消していくだろう。
だって、不況なんだから。
そしてそれは決して間違ったことではない。
厳しい環境下で生きていくためには
余分な枝葉を切り落とす必要があるからだ。
いまはちょうどその作業の途中なのだろう。
よく前例に拘束されることを
欠点として描かれることの多い日本人だが
しかしまったく変化がないかというとそんなこともないわけで、
しばしばそれはドラスティックなかたちで訪れる場合が多い。
そしてその際、「飢饉」「地震」「戦争」「環境保護」
といった大義名分が必ず掲げられるのである。
今回の「不況」もそういった前例を打ち捨てるための
免罪符的な役割を担うものなのだと思う。
問題が、問題だ。
一年のうち盆とこの時期(年末・年始)くらいにしか
テレビを見ることもないのだが、
それでもその少ない機会を通して
いろいろなことが見えてくるからおもしろい。
たとえば、なぜクイズ番組が
これだけ流行っているのかについて
ちょっと考えてみた。
そもそもなぜクイズなのか?
クイズの持つ最大の特徴として、
「答えがある」ということが挙げられる。
そうですよね?
かつて禅問答を出題したクイズ番組の司会者を
寡聞にして知らないように、
答えのないクイズの問題っておよそあり得ない。
「問い」には常に「答え」がペアとして存在しており、
その数も有限の範囲内に留まっている。
つまり出題者も解答者も(そして視聴者も)
答えが確実に存在しているということを前提にして
知識の有無を競っているわけで、
少なくともこの部分については揺らぐことがない。
だから、およそすべてのクイズ番組は
答えを知っているか知っていないかという
「マーク式問題」のごとき様相を呈してくることになる。
そうなるとどうなるか。
「知識」という本来アバウトな能力が
あたかも数値化可能であるかのような錯覚を
人々が抱きがちになるというわけだ。
その最たる例が、偏差値でしょう?
ここから、たとえばTOEFLやTOEICに代表される
種々の資格志向と、昨今のクイズ番組の跋扈とが
実は踵をひとつにしたものであることがわかってくる。
どちらの動きも、本来数値であらわせないものを
無理矢理数値に置き直そうとする作業であり、
これは「意識化」の極端な例であろう。
そして、そのような「意識化」が行われるのも、
おおかたは他者による承認を求めてのことなのである。
何てことはない、社会全体が「学校化」しているわけだ。
受験時はもちろん、在学中も卒業して社会に出たあとも、
常に数値を伴った他者からの評価を受けるという
「学校的イデオロギー」の蔓延した社会。
それが、いまの日本の有り様だったりするんだろうな。
「トンネルを抜けると雪国であった」
という出だしではじまる有名な小説があったが、
熾烈な学歴社会を通り抜けたはずの日本は
相変わらず同じような風景にまわりを取り囲まれている。
こう述べるのは、皮肉に過ぎるであろうか。




